2018年のふりかえり【その3】ADHD持ち=障害者であることの受容

グラデーション ADHD
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2018年のふりかえりの続き。最後です。

ADHD持ち=障害者であることの受容

実家で初めて障害者差別に遭う

母のお見舞いに際して、ニートの弟にADHDをカミングアウトしてみたんですよね。

もしかしたら彼の自信のなさは、毒父による「おまえはダメだ」とのディスりと「まだ本気出してないだけだ」との過度な期待とのダブルバインドや、毒母による「いろいろ知らないことがあるんだから守ってあげなくちゃ」みたいな過干渉に起因するんじゃなくて、ADHD症状や能力の凸凹に理由があるかもしれないじゃないですか。

何かの助けになるかなぁと漠然と思って話してみたんですが、返ってきたのは、「え、ADHD……? キチガイじゃん!」という無邪気すぎるコメントで。仮にも30歳過ぎた人間の言葉とは思えなかったですね、きょうだいだけど、最低限の礼儀くらい必要じゃないのかな。

これ<も>あって、実家とは母の葬式後から連絡を絶っているんですが、いや、家族がもしこれ見てたら「自業自得だし、まあ、勝手に頑張ってくれ」と言いたいですね。

「私は障害者なのだ」

――という過程を経て、「自分も障害者として差別されることがあるのだ」という認識を改めて確認しました。

(ちょい自慢が入りますが、)仕事とかしたらたしかにうっかりミスとかはあるけど、フツーの人よりは手際よく確実にこなせる身なんですが(あ、家事はストラテラあってもなくても壊滅的です。意欲がわかなくて。先延ばし対策も放棄しつつありダンナに頼る面もかなりあります……)、それでも「人間未満」みたいに扱われるって、なんか悲しいです。

自分自身では、例えば視覚障害や身体障害のある人に対して、助けたほうがよさそうだというときは、身近なだれかが困るときと同じく、特に見返りなしにちょい手伝うことはあります。でも、それって、後ろの人のためにドアを開けて支えておくことなどの延長上にあることじゃないかと思うんですよね。

側にいるこの人が困っているなら、自分のできる範囲で、その人が欲しいと思う手伝いをしよう。

そんな感じ。甘い認識なのかな……。

少なくとも日本では、そういった「障害の地続き」感、「グラデーション」感を持つ人ばかりじゃないし、相手が「障害持ち」となるとなおさら自他に境界線を引きたがる人もいるんですねぇ。知ってたけど、まさかそれを実家で自覚するハメになるとは思わなかったわ。

差別の分、社会から「福祉」をもらっていい

差別を受けることを考慮すると、障害者であることに対する福祉の利用も、むしろ積極的に行っていいんじゃないかという気に、最近はなってきました。精神障害者保健福祉手帳3級をもらって、バス乗車賃や美術館の割引・無料利用に活用しているんですが、気軽に移動して、自分の不全感に苛まれる心をそっと癒やすくらいのことはしてもいいのではないかと。

アンラッキーな生まれであるからこそ、それをサポートする仕組みは使っていいのではないかと。

そのうち余裕が出たら、返上するかもしれないですけどね。でも、今はいいかなぁ。

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